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あけましておめでとうございます

皆様あけましておめでとうございます。

去年は、年初の挨拶を除けば仕事をやめたいという弱音だけのblog更新となりました。


去年も色んなことをさせて貰って幸せな年でした。
会社の皆様には感謝しかございません。

 

本当にありがとうございます。

 

年末は、マゾッホの「毛皮を着たヴィーナス」とマルキド・サドの「ソドムの120日」を読んでおりました。
どうして、今更、こんなに古い余りにも有名な小説を読んでいるかと言いますと、先日、読み終えた「家畜人ヤプー」の沼正三の後書きに、めちゃくちゃ感銘を覚えたからです。その内容は

 

近代のSMは、あくまでSMプレイであって、自分にとって本当のSMは国家の隷属無くしてありえない。
真のSMとは制度としての主人と奴隷という背景がなければ成立しない。
本当の屈服、本当の隷属とは日本の敗戦、植民地化なくしてありえない。

 

といった旨のものでした。

 

なるほど、そうか、確かにそうだ、本当のマゾである沼正三は、もはや完全な屈服、それは天皇が蹂躙され日本人が家畜になる、そういった制度の中で骨の髄まで屈辱を味合うことに打ち震えるほど喜びを覚えるのだ、と。
そんな沼正三に影響を与えた作家である、マゾッホとサド侯爵の描く物語に酷く興味を惹かれ、僕はまだ読んでいなかったこともあり、この年末の休みを通して読んでいたという訳です。

 

確かに今の日本の戦争を知らない世代は、制度としての屈辱みたいなところを想像の埒外に置いているが為に、SMプレイに留まるということは何となくわかると思います。我々、日本人には、特に疎い感情なのだろうと思います。であれば、もはや日本には本当の意味でのマゾ小説は出てこないのではないかと思いました。とはいえ、人の屈折した被虐嗜好というのも奥深いものでしょうし、個人の内面の倒錯性は、現代ならではのものもあるでしょう。

 

例えば、人工知能を支配神(ドミナ)に置いた人間の屈服を描くマゾヒズムなどもあるかも知れません。
いや、毛皮を着たヴィーナスにもあるように、マゾヒズムは圧倒的無機物の神性への恋、そして崇拝から始まるわけで、吾妻ヒカリちゃんを崇拝する男のマゾヒズムは非常に現代的なモチーフとして表現足り得るのではないかと思います。初音ミクや吾妻ヒカリちゃんを始めとしたCGキャラクターやペッパーくんなどのロボットを女神とした現代版の「毛皮を着たヴィーナス」の成立の可能性を模索したエロ漫画表現を探すべきではないかと思いました。

 

「ソドムの120日」に関しては、もう沙村広明先生がハーレーブラッドレイの馬車で、サディズムの本質を漫画で表現するって試みをやっているので、もう良いと思いました。なんで沙村は先生はあんなもん描くんや!って当時の僕は思っていた(このblogの過去の記事にも、その痕跡はあるでしょう)のですが、なるほど、あれは、サド侯爵の著作の影響というか、サディズムを,なんというかピュアな表現でやろうとしている、むしろ高尚な漫画なんだと思い直しました。

 

進撃の巨人を嚆矢として、圧倒的な存在に蹂躙され捕食される日本人みたいな構図の漫画を最近よく読みますが、そういったものの流行を見ていると沼正三の書いている日本人の家畜願望、家畜遺伝子みたいなのも、まんざら嘘でもないなと思ってしまいますね。

僕は、この1年、漫画に対して思うことがたくさん出ました。

 

無為に再生産されるだけの漫画(ガワ変え)と、延々と80年代と90年代を引きずり続ける漫画ばかりで危惧を覚えるというか、このまま日本の漫画は、震えるほどの名作を産めないまま終わっていくのではないかということです。

 

何故、そんなことを思うかというと、今年読んだ本と動画の数々に影響を受けたからです。

 

「現代ゲーム全史」「リアリティ イズ ブロークン」「おたくの精神史」「キャラの思考法 現代文化論のアップグレード」「moon」「heavy rain」「life is strange」「読者は読むな」「save the catの法則」

 

他にもいっぱい読んだり観たりしてるのですが、ゲームについて個人的に思っていることがあります。

 

ソーシャルゲームの隆盛は、ゲームをゲームという概念から解体して、サービスとプロモーションの一環として再定義しました。ゲームは、もはやサービスです。ユーザーの感情をケアする為のサービスとして考えられています。だから、ゲーム性のない「ぽちぽちゲー」が成立するのです。ソシャゲが黎明期に叩かれた「あれはゲームじゃない」という批判は的をある意味で得ていて、ゲーム性を備えたサービスと考えてもらった方が良いのです。そして、ゲームは、もうそれ単体で成立させるのではなく、ゲームを収益の柱のひとつとして据えつつ、アニメーション、グッズ、イベントなど、総合的に売りに行く手段としての機能が大きいのです。ゲームはアニメーションのプロモーションの一環として先行リリースされる訳です。なので、今後は、アニメーションとゲームとイベント、グッズの垣根は、どんどん緩やかになっていって、総合エンタメとしてとりにいく時代になります。ゲームの競合は、ゲームではなく他のエンタメなのです。コンシューマーゲームも映画的表現が、どんどん先鋭化していっているし、特にアドベンチャーゲームなど、その傾向が顕著で、既存のゲーム演出よりもTVドラマや映画の演出、脚本が必要になってきてる印象を受けるので、ここも境界が曖昧になっていくんでしょう。

 

さて、漫画の話に戻ると、これからの漫画はどういう表現があるかを考えていかないといけないと思った訳です。漫画は、先述した複合エンタメの枝葉の一つではあるんですが、じゃあ、一体、漫画という媒体が、その複合エンタメの中心として据え置かれる方法はなんぞや?とか、既存の漫画表現以上の漫画の表現には、どんな方法があるのか?

 

そう考えたときに、ひとつの可能性として「moon」であり「ガンパレードマーチ」であり「ARG」としての漫画表現があるんではないかと思っているのです。

 

時間さえあれば、この試みをweb漫画媒体で実験してみたいのです。

 

おそらく、漫画は、漫画単体で終わらせるのではなく、あらゆる媒体を使って、

 

「どう漫画の枠を越境するか」

 

というARG的な試みをやっていくべきだと思うのです。
昔、秋山ジョージがサンデーで連載していた『告白』がヒントになっています。

 

今年はこの試みができるか?

 

誰かにやられる前にやりたいのです。

もちろんネームを練るのも大事ですが、どう既存の漫画論から逸脱する枠組みで漫画を規定するか売り方を考えてみるというのも良いんじゃないかと思います。

 

僕のアイデアを実現してくれる人、募集しています。

 

とりとめもない話になりましたが、今年もよろしくお願い致します。

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